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小春日和。

落乱の小ネタをなんちゃってで調べようとした何か

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走りの一平 (はしりのいっぺい)


足が極めて速いことで知られる。
上ノ島 一平の名前の由来となった、近江出身の忍者。

 俊足を買われて木下秀吉に仕え、作戦変更の急使役などを務めた。重用されていたのか、給金が他の忍者の倍以上あったそうである。その後、海津城(長野市松代町)城代、春日虎綱(武田四天王のひとり)に仕え、第四次川中島の戦い間際には、海津城甲府間を往復し、信玄に謙信の情報を知らせたり、指示を仰いだりする急使の任に就いたようである。


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鵜飼 勘右衛門 (うかい かんえもん)


尾浜勘右衛門の名前の由来となった甲賀忍者。
望月兵太夫らと共に、天草一揆に幕府勢として参加した甲賀者のひとり。

勘右衛門の名前は、最初は「額田五兵衛」にしようとしていたのだとか。
こちらも、同じく天草一揆に参加した伴五兵衛から?


望月 兵太夫 (もちづき へいだゆう)


笹山兵太夫の名前の由来となった甲賀忍者。
慶長五年(1600年)の、伏見篭城戦に参加していたともいわれる。

 島原の乱において、幕府勢として参加した十人の甲賀者のうちのひとりで、参加した者の中では最年長。天草四郎・一揆勢が篭城する原城要害の見取り図作成や、敵の兵糧米を奪うなどの任についていたようである。また、島原の乱は忍者が参加したという記録が残る最後の戦である。


*島原の乱に参加した甲賀者とその年齢
 ・ 望月 兵太夫   (63歳)
 ・ 望月 与右衛門 (33歳)
 ・ 芥川 清右衛門 (60歳)
 ・ 芥川 七朗兵衛 (25歳)
 ・ 山中 十兵衛   (53歳)
 ・ 伴 五兵衛    (53歳)
 ・ 夏見 角介    (41歳)
 ・ 鵜飼 勘右衛門 (54歳)
 ・ 岩根 勘兵衛   (45歳)
 ・ 岩根 甚左衛門 (56歳)

伊賀崎 道順 (いがさき どうじゅん)


伊賀国楯岡出身(そのため、楯岡の道順とも)
伊賀忍術四九流の頭領で、伊賀崎孫兵の名前の由来となった忍。

 近江国守護・六角承禎の依頼で、伊賀忍者四十余名、甲賀忍者四名を率いて佐和山城百々氏に夜討ちをかけたとされる。その際、猟師や乞食に化けて侵入(妖者の術)。敵の油断を見て放火し、敵が混乱すると六角勢を引き入れ、これを陥落させた。この時、戦いの吉凶を占った陰陽師が道順に送った、「佐和山に 百々(どど)ときこゆる雷も 伊賀崎入れば 落ちにけるかな」という歌が残されている。

 伊賀の乱後、一宮敢国(あえくに)神社で休息中の信長を狙撃するも、失敗に終わったという話もある。


*(天正)伊賀の乱
織田軍勢による伊賀攻め。第一次伊賀の乱では大勝するも、第二次伊賀の乱では、伊賀国のほぼ全域が焦土と化したという。


*道順が登場する書物 → 万川集海

鉢屋 弥三郎 (はちや やのさぶろう・やさぶろう)


鉢屋三郎の名前の由来となった尼子氏の忍者
主君に追放された尼子経久の月山富田城(がっさんとだじょう)奪還に協力したとされる。

 富田城内で、元旦恒例となっていた千秋万歳(せんずまんざい)を披露するという名目で、大手門より鉢屋衆が城に侵入。城内の油断を見て放火。これを合図に尼子勢が乱入し、楽曲を奏でていた鉢屋衆も隠し持っていた武器を取り出し参戦。富田城奪取に成功した。

 この功で、弥三郎は本丸の北東にある鉢屋平(はちやなり)に長屋を与えられ尼子氏の忍者となり、多くの戦で、奇襲をするなどの活躍をしたといわれる。


*月山富田城 : 戦国時代に尼子氏の本拠地となった、島根県安来市にある城で、中四国最大級の山城。堀尾氏の頃、本拠地が松江に移されたのに伴い廃城。「月山」は、当時の城下町から見て城のある山側から月が登ることから。
*尼子経久 : 出雲守護代。主君である京極政経を追放し、事実上の守護となった。
*千秋万歳 : もとは長寿を祝う言葉で、初春の祝福芸。「あら目出度や五六億七千万歳、弥勒の出世、三会の暁」と囃し立てながら、笛や太鼓を打ち鳴らして舞を舞った。
*鉢屋 : 江戸時代、鉢や瓢(ひさご/ヒョウタンなど)を叩き歩いて布施を受けた者の事。賎民として扱われたためか、アニメでは鉢屋の字を避けて表記が蜂屋になっていた。

〇鉢屋衆
 軽業・諜報・ゲリラ戦等に優れていたそうである。平将門謀反に与した飯母呂(いぼろ)一族は、将門の敗死後に都を追われ、強盗集団となって畿内を荒らしまわった。しかし、名僧・空也上人の家に押し入った折、上人に諭され改心。上人の教えに従い、念仏を唱え、托鉢で生計を立てた。この時、鉦(かね)の代わりに鉢を叩いたことから「はちやもの」と呼ばれ、ここから「鉢屋」となる。京の四条~五条河原町のあたりに苫屋(とまや)を建てて住んだことから苫屋鉢屋とも呼ばれた。後、山陰地方にも鉢屋一党は流れたようだが、出雲付近の鉢屋を束ねていたのが弥三郎であるらしい。

*苫屋 :  菅(すげ)や茅(かや)を荒く編んだむしろで屋根を葺いた家。粗末な小屋の事。


*鉢屋が登場する書物 → 陰徳太平記、雲陽軍実記


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