〇天守閣(天主閣・殿主閣)
城中の主要部分にある最も大きな櫓で、城・城主の権威の象徴。今日において一般的に言われる天守閣は、天正7(1579)年に織田信長が築いた安土城が始めとされる(作中の時代設定よりも後?)。その頃よりも古くに築城されたものや、近世においても必要が無いと判断されたものは、天守閣が存在しない場合もある。
石垣で築いた天守台の上に三、または五層(四を忌むので四層はない。
また、見た目の階層と内部の階層が一致するとは限らない)の屋根を持った高層櫓を建てた物で、本丸の中央部、または一隅(主に西北)の最も高い場所に築かれる。外壁が下見板張(したみいたばり)の場合見た目が黒く、白漆喰総籠(しろしっくいそうぬりごめ)の場合は見た目が白くなる。下見板張の方が、やや古いタイプ。
城主の居室設備を備えた物もあるが、平時においては(特に戦乱の収まった後は)主に倉庫として用いられた。戦の際は、寄手の状況を見降ろすことを目的とし、、籠城戦では最後の拠点となるため、閣内には、槍・弓矢・鉄砲、米・塩、旗・幟などが常備してあった。
主な現存天守→姫路城、彦根城、犬山城、松本城、高知城、松江城など
作中では、屋根や壁に木が使われている城、漆喰・瓦が使われている城の両方が存在する。また、城郭建築に、漆喰・瓦が使われだした理由として、耐火性に優れていることや、見た目が優美であること等が挙げられる。
鉢屋三郎の名前の由来となった尼子氏の忍者
主君に追放された尼子経久の月山富田城(がっさんとだじょう)奪還に協力したとされる。
富田城内で、元旦恒例となっていた千秋万歳(せんずまんざい)を披露するという名目で、大手門より鉢屋衆が城に侵入。城内の油断を見て放火。これを合図に尼子勢が乱入し、楽曲を奏でていた鉢屋衆も隠し持っていた武器を取り出し参戦。富田城奪取に成功した。
この功で、弥三郎は本丸の北東にある鉢屋平(はちやなり)に長屋を与えられ尼子氏の忍者となり、多くの戦で、奇襲をするなどの活躍をしたといわれる。
*月山富田城 : 戦国時代に尼子氏の本拠地となった、島根県安来市にある城で、中四国最大級の山城。堀尾氏の頃、本拠地が松江に移されたのに伴い廃城。「月山」は、当時の城下町から見て城のある山側から月が登ることから。
*尼子経久 : 出雲守護代。主君である京極政経を追放し、事実上の守護となった。
*千秋万歳 : もとは長寿を祝う言葉で、初春の祝福芸。「あら目出度や五六億七千万歳、弥勒の出世、三会の暁」と囃し立てながら、笛や太鼓を打ち鳴らして舞を舞った。
*鉢屋 : 江戸時代、鉢や瓢(ひさご/ヒョウタンなど)を叩き歩いて布施を受けた者の事。賎民として扱われたためか、アニメでは鉢屋の字を避けて表記が蜂屋になっていた。
〇鉢屋衆
軽業・諜報・ゲリラ戦等に優れていたそうである。平将門謀反に与した飯母呂(いぼろ)一族は、将門の敗死後に都を追われ、強盗集団となって畿内を荒らしまわった。しかし、名僧・空也上人の家に押し入った折、上人に諭され改心。上人の教えに従い、念仏を唱え、托鉢で生計を立てた。この時、鉦(かね)の代わりに鉢を叩いたことから「はちやもの」と呼ばれ、ここから「鉢屋」となる。京の四条~五条河原町のあたりに苫屋(とまや)を建てて住んだことから苫屋鉢屋とも呼ばれた。後、山陰地方にも鉢屋一党は流れたようだが、出雲付近の鉢屋を束ねていたのが弥三郎であるらしい。
*苫屋 : 菅(すげ)や茅(かや)を荒く編んだむしろで屋根を葺いた家。粗末な小屋の事。
*鉢屋が登場する書物 → 陰徳太平記、雲陽軍実記