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小春日和。

落乱の小ネタをなんちゃってで調べようとした何か

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天守 (てんしゅ)


〇天守閣(天主閣・殿主閣)

 城中の主要部分にある最も大きな櫓で、城・城主の権威の象徴。今日において一般的に言われる天守閣は、天正7(1579)年に織田信長が築いた安土城が始めとされる(作中の時代設定よりも後?)。その頃よりも古くに築城されたものや、近世においても必要が無いと判断されたものは、天守閣が存在しない場合もある。

 石垣で築いた天守台の上に三、または五層(四を忌むので四層はない。
また、見た目の階層と内部の階層が一致するとは限らない)の屋根を持った高層櫓を建てた物で、本丸の中央部、または一隅(主に西北)の最も高い場所に築かれる。外壁が下見板張(したみいたばり)の場合見た目が黒く、白漆喰総籠(しろしっくいそうぬりごめ)の場合は見た目が白くなる。下見板張の方が、やや古いタイプ。

 城主の居室設備を備えた物もあるが、平時においては(特に戦乱の収まった後は)主に倉庫として用いられた。戦の際は、寄手の状況を見降ろすことを目的とし、、籠城戦では最後の拠点となるため、閣内には、槍・弓矢・鉄砲、米・塩、旗・幟などが常備してあった。

主な現存天守→姫路城、彦根城、犬山城、松本城、高知城、松江城など

 作中では、屋根や壁に木が使われている城、漆喰・瓦が使われている城の両方が存在する。また、城郭建築に、漆喰・瓦が使われだした理由として、耐火性に優れていることや、見た目が優美であること等が挙げられる。












 

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首実検:六相・首供養

「父上がいっていたんだ 片方の目だけをあけて 横目でにらんで歯噛みしている顔は 不吉な顔だって」
(落乱33巻33頁 笹山兵太夫)
〇六相
敵将の首の相によって吉凶を占った
 ● 仏眼 : 両目を閉じたもの         →  吉
 ● 天眼 : 両目が上を向いているもの   →  凶(甲州武田家では吉)
 ● 地眼 : 両目が下を向いているもの   →  吉(甲州武田家では凶)
 ● 右眼 : 両目が右を向いているもの   →  味方に吉
 ● 左眼 : 両目が左を向いているもの   →  敵に吉
 ● 凶相 : 片目横目(左眼?)で歯噛み  →  首供養を行い凶兆を払う(大将には見せない)


〇首供養(首祭り)
自分が討ち取った者を弔うための法要で、普通、
ひとりで敵の首を33個とった時、または、母衣を着けた武者を討ち取った時に行う。
僧を招いて読経をしてもらい、21日間の精進をして首塚を築く。


鉢屋 弥三郎 (はちや やのさぶろう・やさぶろう)


鉢屋三郎の名前の由来となった尼子氏の忍者
主君に追放された尼子経久の月山富田城(がっさんとだじょう)奪還に協力したとされる。

 富田城内で、元旦恒例となっていた千秋万歳(せんずまんざい)を披露するという名目で、大手門より鉢屋衆が城に侵入。城内の油断を見て放火。これを合図に尼子勢が乱入し、楽曲を奏でていた鉢屋衆も隠し持っていた武器を取り出し参戦。富田城奪取に成功した。

 この功で、弥三郎は本丸の北東にある鉢屋平(はちやなり)に長屋を与えられ尼子氏の忍者となり、多くの戦で、奇襲をするなどの活躍をしたといわれる。


*月山富田城 : 戦国時代に尼子氏の本拠地となった、島根県安来市にある城で、中四国最大級の山城。堀尾氏の頃、本拠地が松江に移されたのに伴い廃城。「月山」は、当時の城下町から見て城のある山側から月が登ることから。
*尼子経久 : 出雲守護代。主君である京極政経を追放し、事実上の守護となった。
*千秋万歳 : もとは長寿を祝う言葉で、初春の祝福芸。「あら目出度や五六億七千万歳、弥勒の出世、三会の暁」と囃し立てながら、笛や太鼓を打ち鳴らして舞を舞った。
*鉢屋 : 江戸時代、鉢や瓢(ひさご/ヒョウタンなど)を叩き歩いて布施を受けた者の事。賎民として扱われたためか、アニメでは鉢屋の字を避けて表記が蜂屋になっていた。

〇鉢屋衆
 軽業・諜報・ゲリラ戦等に優れていたそうである。平将門謀反に与した飯母呂(いぼろ)一族は、将門の敗死後に都を追われ、強盗集団となって畿内を荒らしまわった。しかし、名僧・空也上人の家に押し入った折、上人に諭され改心。上人の教えに従い、念仏を唱え、托鉢で生計を立てた。この時、鉦(かね)の代わりに鉢を叩いたことから「はちやもの」と呼ばれ、ここから「鉢屋」となる。京の四条~五条河原町のあたりに苫屋(とまや)を建てて住んだことから苫屋鉢屋とも呼ばれた。後、山陰地方にも鉢屋一党は流れたようだが、出雲付近の鉢屋を束ねていたのが弥三郎であるらしい。

*苫屋 :  菅(すげ)や茅(かや)を荒く編んだむしろで屋根を葺いた家。粗末な小屋の事。


*鉢屋が登場する書物 → 陰徳太平記、雲陽軍実記


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二曲輪 猪助 (にのくるわ いすけ)


精神力の強さと早足で知られる、
二郭伊助の名前の由来となった風魔乱破(らっぱ)。

 河越の戦いで、北条氏康の密令を受けて上杉軍の陣中に忍び込み、雑兵になりすまして5ヶ月(?)もの間、布陣の様子や内情等、敵の情報を送り続けた。それにより、氏康は上杉方への奇襲に成功する(河越の夜戦/三大奇襲のひとつ)。

 陣中から小田原へ逃げる際、上杉軍の太田犬之助という忍に追われるが、猪助の方が速く、逃げ切った。その後、道端に繋いであった馬を使ったから逃げ切ったのだといわれ、上杉方で「駆り出され 逃げし 猪助は卑怯者 よくも太田(追った)が 犬の助かな」という猪助を卑怯者とする落首(狂歌)が貼りだされた。これを知った猪助は、犬之助に駆け比べの果し合いを挑み、勝ったとされる。

 そののち伊賀へ行き、風魔忍法を伝えたといわれる。


*猪助が登場する書物 → 関八州古戦録

熊若 (くまわか)



佐竹虎若の名前の由来となった武田氏の忍者で、早駆けの達人。
信濃出身で、武田信玄の重臣・飯富虎昌(おぶとらまさ)に属していたといわれる。

 第四次川中島の合戦前、虎昌は軍旗を持たぬまま兵を進めてしまった。気付いた虎昌は、軍旗をとってくるように熊若に命じるが、熊若は、割が岳・甲府間の往復約64里(256km)の道のりを、2刻(4時間)程で走破し、軍旗を携えて戻って来たといわれる。

 この時、通行手形を忘れたために城門から入れず、壁を伝ったりして館から旗を持ち出してきたという。また、そのころ、信玄秘蔵の古今和歌集が盗まれたため、窃盗犯の疑惑をかけられるが、犯人である風魔忍者(一説に加藤段蔵)を捕らえて身の潔白を証明したともいわれる。


〇飯富虎昌
 武田二四将のひとり。武田信玄は多くの忍びを抱えていたが、そのうち優秀な者60名を3組に分け、甘利虎泰、飯富虎昌、板垣信方に、20名ずつ預けて情報収集に当たらせた。熊若は飯富虎昌に属していた。
熊若→虎若になったのはここから?

〇速さ
 忍者は一夜で30里(約120Km)、足の速い者は一夜で50里(約200Km)走ったと言われる。
(参考までに→箱根駅伝走者は時速約18~23Km/h)

〇古今和歌集
 905~914年ごろに成立した、日本最初の勅撰和歌集。約1100首の歌を納める。
古典作品が一般に広まったのは江戸時代からで、当時は大変貴重な書物。大名は書物を所蔵している公家等(名士・古典学者)を招き、講義を受けるなどして勉強した。(公家にとっても、古典は一種の特権&貴重な収入源なので基本的に外に出さない)古今和歌集の語句の解釈や、関連分野の学説等の秘説を、師が特定の人物、弟子に伝授することを、古今伝授(こきんでんじゅ)という。


*熊若が登場する書物 → 伽婢子(おとぎぼうこ)


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 *原作中心に調べ中。
  小ネタが多すぎて追いつかない。
  映画ネタも入れたいという願望。

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